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2015年6月25日 (木)

ホトトギスの凋落(3) 〜「不如帰」、帰ることができなかったのか?

Shinryoku

さきの投稿「ホトトギスの凋落(1)〜むかし栄耀栄華を極めてた「ホトトギスの凋落(2)〜失われた神通力」 で、ホトトギスが古来、いわゆる花鳥風月のあらゆるイメージの中のチャンピオンに君臨してきたこと、そしてそれが現代では忘れられつつあることを書きました。ここでは、ホトトギスの漢字表記のいくつかについて思いを巡らせながら、ここにも顔を出す凋落ぶりについてご紹介します。
 
ホトトギスの漢字表記は、ちょっと調べるだけで、時鳥、不如帰、思帰、子規、杜鵑、蜀魂、蜀魄、杜魂などいろいろ出てきます。

このうち「時鳥」は漢文にもとづかない、日本でできた名前でしょうね。そのこころは、毎年季節を違わずやってきて鳴く鳥ということでしょう。
 
「ホトトギスの凋落(2)〜失われた神通力」 で科の和名の変遷について書きましたが、戦後しばらくの間の日本の鳥類図鑑でも「杜鵑科(とけんか)」という和名が用いられていました。現在の探鳥会リーダーの方はどうか知りませんが、ひと昔(ふた昔でしょうか?)前の探鳥会リーダーは、外見からは識別が難しいホトトギス、カッコウ、ツツドリのよく似た鳥について、「トケンの仲間ですけど、鳴かないと難しいですね」などと「トケン」という言葉を使って解説されたものです。
 
この「杜鵑」という言葉は中国の古い伝説に由来するそうです。参考書をひもといてみましょう。
 
「その中で、杜鵑、杜宇、蜀魄、不如帰は、蜀の望帝、杜宇に関する伝説に由来する。望帝、杜宇は不品行により帝位を追われ、“ほととぎす”に化して、『不如帰』と鳴きながら飛び去ったというのである。中国では鳴き声を『不如帰』と聞き做(な)していたのである。」(『図説日本鳥名由来辞典』菅原博・柿澤亮三, 1993. 柏書房)
 
「中国の戦国時代のころ、四川省は中華天下の中心部から離れた別天地であった。竹や米のよく育つ牧歌的なこの地に、杜宇(とう)(望帝)というおとなしい王様がいた。やり手の宰相開明の妻君に思いをかけたが、その恋がかなわず、宰相に国を譲って西山に隠れた。この山には鵑(けん)が鳴く。そこで国人が『あれは杜宇さまの生まれかわりだ』というので、杜鵑と呼ぶようになったという。・・・その声は凄絶で不如帰去(帰るにしかず)と鳴いているように聞こえ、故郷を離れた旅人に帰心を抱かせるので『思帰』とも呼ぶ。それがいつしかなまって『子規』とも書くようになった。俳人、正岡子規の名は、それから由来する。」(『漢字の話』藤堂明保, 1986. 朝日選書)
 
なるほど、ホトトギスにはこういう伝説があって、それに関連していろいろな漢字表記があるのですね。
 
「不如帰」「不如帰去」は、音読みすると「フジョキ(フニョキ)」「フジョキキョ(フニョキキョ)」となりますが、なるほどこれは、ホトトギスの鳴き声の「聞きなし」(=鳥の声に意味のある人間の言葉をあてはめて聞くこと)なんですね。日本の我々の「トッキョキョカキョク」とも一脈通じるものがあるかもしれません。

念のため、「フジョキキョ」と聞こえるか、「トッキョキョカキョク」と聞こえるか、ホトトギスの鳴き声のリンクを改めて挙げておきます。

 
現代中国語の普通話、つまり北京語をもとにした標準語でこの「不如帰去」を読むと、「ブゥ ルゥ グェイ チュウ」(ピンイン表記は“bu4ru2gui1qu4”) といった感じです 。「フジョキキョ」と比較すると、むしろ「フジョキキョ」のほうがホトトギスの鳴き声に似た感じがするのが面白いです。日本語が古い中国の発音を残しているということなのかもしれません。いちど、古い(四川省の)発音がどうだったのか、どなたかに伺ってみたいものです。
 
さて、面白いことに、この「不如帰」の「帰るにしかず」についてインターネット上には「帰ることができない」とか「帰りたい」という訳が広く流布しています。
 
こういった基礎知識についての誤解が訂正されることなくどんどん流布していってしまうことも、やはりホトトギスの凋落を如実にあらわす一側面といえるでしょうが、もちろんこの解釈は間違いで、正しくは「帰るのがいちばん」ということです。藤堂明保の解説でも、失脚した望帝が隠棲した田舎の山でホトトギスが鳴いているわけですから、「帰ることができない」のではつじつまがあいません(注2)
 
「如く(しく)」「如かず(しかず)」という比較の表現は、現代の日常会話では使わないので難しいのでしょうが、 「三十六計逃げるにしかず」ということわざは、たくさんの計略のなかで逃げるのがよいと言っているのか、いけないと言っているのか(、 はたまた逃げることができないと言っているのか)、「百聞は一見にしかず」は、何度も聞くのが良いと言っているのか、一回見るのが良いと言っているのか(、 はたまた一回も見ることができないと言っているのか) 、 よく考えればわかることです。

Hototogisu_rev_img_0863

本当にネット情報は信用できません、ネットなんかやめて山に帰ったほうがよいかもしれません(^^)、という落ちがついた(?)ところで、ホトトギスのうんちくは一区切りとしたいと思います。

 

 

(注2)この点、コメントで追加説明しました(2018年8月3日)。

(不如帰の意味を誤解した訳として、「帰りたい」というものがあることを追加しました(2018年8月11日))

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コメント

「帰る」先は都で、「都に帰ることができない(帝位に帰ることができない)」(とか、「都に帰りたい(帝位に帰りたい)」)と言ってるんじゃないの?とお考えの方もいらっしゃるでしょうか?それはひとつには、上に書いた、「如かず」の意味からしてありえないのはお分かりと思います。「三十六計逃げるにしかず(=沢山の計略の中で逃げるのがいちばん)」というのは、まさにもう逃げる決意が固まったとき、あるいは、すでに逃げてきてしまってから言う言葉です。同じように、「帰るにしかず(=(どんな行動よりも)帰るのがいちばん)」もまさに帰ろうという決意が固まっている時か、帰ってきてから言うことばです。つまり都から移ってきた田舎の山の中で「帰るにしかず」と鳴いている状況そのものの中に、帰る先(帰ってきた先)は山だ、という意味がおのずと含まれています。

この「如かず(しかず)」の意味さえわかればこのことは何も難しくないですが、もしもこの、言葉の意味のことが万一なかったとしても、私は「都(帝位)に帰りたいと願っている」というのは、ありえないと思います。王が失脚して山に隠棲して、鳥になって、そんななまぐさい、俗物みたいな、だだっ子みたいなことを毎日毎日、言ってますという民話があるでしょうか?隙あらば政権への返り咲きを狙ってるというのでしょうか?そんな民話のどこに奥ゆかしい情緒があるのでしょう?

都(みやこ)は、自分を鼓舞して戦う戦場なのです。帰る先は田舎と相場が決まってるのです。「都という戦場で無理矢理、自分の尻を叩いて戦うのはもうたくさんだ、俺は田舎に帰ってゆっくり暮らすんだ、田舎に帰るのが一番だ」と、鳥になって言ってる、という話であってこそ、鳥の鳴き声のいわれを説明してる民話として、しっくりくるだろうと思います。

とても勉強になった記事でした!ありがとうございました!!

コメントありがとうございました。ご理解いただけたようでよかったです。

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