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2014年12月15日 (月)

天津甘栗がなかなか止まらないことについての生物学的(?)一考察

S02

晩秋からお正月にかけて、スーパーには天津甘栗がよく売っています。私も好きなので、時々買って食べてます。

それで、甘栗を食べながら考えるのですが、天津甘栗を食べる手がなかなか止まらないのはなぜなのでしょうか?(以前あるSNSに書いたものに加筆したものです。)

思うのですが、殻付きの(というか普通の)天津甘栗のように、ちまちまと不可食部分をとりのぞいて小さい可食部分を食べるとき、自分の「内なるサル」が目覚めてる気がします

群れでゆるやかな車座になり、なにかおしゃべりしながら、延々と石で小さな木の実を割って小さな可食部分を口に運んでゆくことを繰り返しているチンパンジーの映像を思い出します。何千万年という歴史が、殻つきの甘栗をして後をひかせているのでしょう。

「甘栗むいちゃいました」みたいに、不可食部分を取り除いて、可食部分だけあつめた食べ物は、たとえば精米した白いご飯やら、白いパンもそうですが、おそらく数千年からたかだか1万年ぐらいの歴史しかない、霊長類にとってはきわめて特殊な採食方法なわけです。

「甘栗むいちゃいました」は、その意味できわめて「人間的」な食物といえますが、我々の「内なるサル」に訴えるものがないゆえに、殻つきの天津甘栗を駆逐するところまではゆかないのではないでしょうか?

もちろん我々は主食としてはふだん、ご飯やパンのような、可食部分だけを集めた、効率優先の、歴史の浅い食べ物を食べているわけですが、嗜好品として間食に食べるものの中には、不可食部分を取り去る労力が大きすぎないことと、得られる可食部分のサイズが大きすぎず小さすぎないという絶妙なバランスによって、「内なるサル」に訴える食べ物が生き残る余地があるのでしょう。

ピスタチオ、殻付き落花生などが殻つきでどうして売れるのかもこれで説明できるのではないでしょうか?バーでリラックスした時間を過ごしたいときに剥いてあるピスタチオが出てきたらきれちゃう人もいるかもしれません(笑)。

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